NHK大河ドラマ「麒麟がくる」最終回「本能寺の変」が、きょう7日午後8時から15分拡大版で放送される。脚本を手掛けた池端俊策氏は、大きな夢を持った人間の「心の痛み」を描いたとし、「コロナ禍でつらい世の中ですが、なおさら夢は持ち続けなきゃいけないと思います」と、コロナ禍を生きるすべての人にメッセージしている。

作品を振り返り「物語の後半は、1人1人の心理の葛藤が、書いていておもしろかったです。それぞれ個性的な登場人物だったということもありますが、緊張感を強いられる中で人間を見つめるという作業はこのドラマの中でできたかなと思っています」。

また「光秀は僕だと思って書いていました」と主人公への思いを語り、人物を立ち上げた主演の長谷川博己に対して「見事に入り込んでくれた」と評価した。「光秀は相手が言ったこと、行動したことに反応する“受ける芝居”が多くて、脚本も『…』となっていることが多いです。大変難しい役だったかと思います。僕は光秀が長谷川博己さんで大正解だったと思っています」。

信長との関係性について「屈折した部分もある信長を危なっかしいと思いつつ、この人の行動力があれば戦乱の世を終わらせられるのではないかと思い、一種の友情関係を維持して一緒にやっていくわけですよね。しかし、最後はこの人の元では平和な世は来ないと、その信長を殺さざるを得なくなるという、非常に悲しい運命になるので、そういう光秀のつらい気持ちを描きました」。

本能寺の変についても「光秀と信長の『不思議な友情物語』を1年通して描いてきました。信長を殺すとは光秀自身も思っていなかったでしょうし、信長も光秀に殺されるとは思っていなかった」。

物語をどうやって「本能寺の変」にもっていくのかずっと悩んだとし「34~35回あたりからちょっとずつわかってきて、37~38回で、あ、こうすれば本能寺にいくな、と思いました。決定的になったのは、40回で松永久秀が亡くなったシーン。残された平蜘蛛の意味を考えていくうちに、『つまりここで光秀は信長と離れていくんだ』と明確になっていき、そこからはクライマックスに向けて坂道を転げ落ちるような勢いで一気に書き上げました」と明かした。

「光秀は信長を殺したくて殺すわけでもなく、憎らしいから殺すわけでもありません。やむを得ず、自分の親友を殺したんです。ここまで一緒に歩いてきて、一緒に夢を語った相手を殺すのはつらいですから、本能寺で信長を殺しても『やった!』という快感ではなく、悲しさがありますし、大きな夢を持った人間は、やはり大きな犠牲を払わなければならない。その心の痛みを描きました」。

「麒麟がくる」というタイトルについて「昔も今も平和をのぞむという人間共通の夢が込められている題名」という。「夢を持って生きることの大切さを描けたのもよかったです。今はまだまだコロナ禍でつらい世の中ですが、なおさら夢は持ち続けなきゃいけないと思います」と話している。